図書室のある家に住むのが夢だった。
引っ越してきてから半月ほどで早くも家の中にいる蜘蛛を素手で叩き落とせるようになっている。自然界は過酷なのだ。息子が小さい頃、よく泊りがけでキャンプに行ったのだけども、三日目くらいからは小虫の落ちたご飯も平気で食べられるようになっていた。人間はどんな環境にも慣れるようにできているのか。
うちは(というか私は)本が多い。小説やノンフィクションや漫画や写真集や専門書やジャンルはいろいろだけれどとにかく多い。個人的には服を捨てるのより本を捨てることのほうが難しい。以前の家では棚などの関係であちこちバラバラになっていたそれらを、この家に越してきて一部屋にまとめることができた。「ここは図書室なのです」と胸を張って宣言するにはいささか小さく、棚はちぐはぐで恥ずかしいのだけれど、別に誰も見にこないからいいのである。
図書室のある家(できれば西洋のお城)に住むのが夢だった。
嘘。そんな大袈裟なもんじゃない。でもそういう家に暮らす自分を妄想してみたことは何度もある。天井まで伸びる本棚に囲まれて、その時々好きな場所に座り込んで本を貪るように読む自分。重厚なカーテンをあければ日差しがさんさんと降り注ぐ。上の棚から本を取るときははしごを使う。どこにどの本があるのか私は全て把握しており、遊びに来た子供(誰)に魔法のかけられた本を手渡し一言、「坊や、これから体験することは誰にも言うんじゃないよ」
いったい私は何者だろうか。
とにかく引越しで全ての本を棚から出し、全ての本を収納したわけだけれども、そういう機会は引越しでもしないとないのだなとあらためて。
本の並べ順とかも気になりまして。アイウエオ順かジャンルか、いやジャンル別けした上でアイウエオ、しかし読んだ本もまだ読んでいない本もあるわけだしこれはすぐにでも再読したいからわかりやすい位置に、などとやっているといつまでたっても終わらない。
独自ジャンルみたいなものもあるじゃないですか、ないですか。
寝る前布団の中で読みたい本とか、表紙がかわいいから飾りたい本とか。グロイ本とファンタジーを並べるのはどうなのかとか、贅を極めた「マルコス王朝」の横に過酷な人生を歩んだ「女盗賊プーラン」は不味くないかとかでも棚には際限があるのです自分、と本を床に散らばしてめちゃくちゃにしてからやっと気づきました。
それでもなんとか丸二日かけて収納し終わった棚がこれ。
と、見せられませんがとにかく終わった。最終的に捨てられなかったこだわりは純文学とエンタメを別けることでした。私はどちらかというと純文学を好んで読むのだけれども、亡くなった母が大事にしていた本たちというのもあってそれがどちらかというとエンタメ寄りである。
母は自分が死んだらこの本たちは病院(自分が入院していた)に寄付したいと言っていた。各階にある患者さんや家族が集う部屋に本棚があり、さまざまな事情で時間を持て余した人や現実を直視したくない人(私も、恐らく母もそうだった)たちがその棚に手を伸ばしていた。母はそこに自分の持っている本を置いて欲しいと思っていたのだ。
冊数にして100強ほどだろうか。もちろん母が亡くなった後、母の願いを叶えるべく私は病院にその旨をお伝えしたのだけれども、そういうことはちょっとお受けしかねますとのことであえなく撃沈。
考えてみれば当然のことなのだろうけれども、当時は願いを叶えてあげられなくて辛かった。で、その本たちが今私の手元にあるというわけだ。手元にきてから私も少しずつ読んでいる。
西村寿行。横溝正史。渡辺淳一。原田康子。吉行淳之介、などなど。
「成城快楽夫人」なんて本もあり、「お」と思う。
これを? 寄付? 母よ。
その他にも息子氏が家に置いていった本というのもあり、まあでも長くなったからその話はまた今度。