血気盛んに思い出せない。

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今日は椅子カバーを作った。座った後に撮ったから皺がよっているがご愛嬌。

椅子面で型をとって裁断したから、中にクッション入れたら小さかった。なんとか押し込む。

この布は亡くなった母が持っていたもの。こういう柄が好きだったのだとしたら遺伝しているのだな。おかんの足跡に胸がきゅっとなる。

さて。

今日は久しぶりに家に一人でいる(老犬さんはいる)から必要最低限のことしかしないでのんびりするのだと一週間くらい前から決めていたのだった。うちは旦那氏も自由業なのでだいたい家にいるからね。旦那氏が家にいても息苦しいとかは基本ないのだけど、向こうはどうだか知らないけど、まあ私のほうはないということで、でも昼になれば昼飯を作らねばだし夜になれば夕飯を作らねばだし、一日中ぐだぐだ過ごすなと言われたことはないがなんとなくそういうわけにもいかないような気がするのだな。だからまあいろいろやって一日が終わるわけだが、たまのいない時くらいこうぐたーっと過ごすのもいいんでないの? とつまりは欲していたわけです。

でも実際オールフリーになってみると、不思議なものでいつも以上にせこせこしく箒なんかかけたりして、昼なんか食パンかじればいいやくらいに思っていたのになんかいろいろ料理したりして余ったりして、「や、違うでしょう。今日はぐたーの日ではないの」と半ば言い聞かせるようにして動こうとするのを堪えて、どうも一生懸命ぐたーっとしているような按配。ぐたーっとするのも難しいのだね。

日頃はテレビをほとんど観ない人なのだけど、テレビはぐたーの必須アイテムじゃないか、つってテレビをつけたら「マディソン郡の橋」をやっていた。

この映画、旦那氏と初デートで観たのだった。当時はちっとも面白く感じられなかったのです。若かったし初デートだしご年配同士の本物の愛って言われたってぽかーんだった。メリルは手を首もと胸元にもっていって息遣い荒すぎだし、クリントはしわくちゃやん、雨で前髪すだれみたいになっとるやん、とまあそんな感じでただの色ボケみたいにみえたの言葉は悪いけど。何もかも言い訳めいてるじゃんとか臆病さをなじったりとか、本物の愛なんかしゃらくせぇ嘘くせぇと血気盛んだったわけだ。若かった。

あれから二十年くらいか経って自分もメリル的な年齢に近づき子供もやんちゃに成長しなんとか巣立ったという今、再び観てみたら、すごく良かったわ、とまではいかないけどメリルがクリントに走れなかったのもあの四日があったから家族を大事にできたというのもわかる。わかるようになってしまった。メリルの台詞一つ一つがリアルに理解できるようになっていた。切実だわな。

誰かを好きになるってとってもパワーがいることなんだなっておばちゃん思うの。そういうパワーがメリルに残っていたのが単純に羨ましい。身体の中の熱というのでしょうか。燃える部分。って若い頃とは全く別の視点で食いつくようになっていていいんだか悪いんだか。安定がいいよ。でも熱も羨ましいよ。歳を重ねるってそういうこと。

メリルとクリントがなんという役名だったかもう思い出せない。