夢のウラド F・マクラウドW・シャープ幻想小説集 訳:中野善夫

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一昨日、読了。本を閉じると長い長い旅から帰ってきたみたいな心地になった。程よい倦怠感と脱力、刻み込まれた数々の素敵な思い出たち。

はじめに断っておこうかしらん。私はケルト民話を知らない。その存在すら知らなかった。フィオナ・マクラウドの存在も、ウィリアム・シャープという存在も知らなかった。縁あってこの本を手にしたけれど正直難しいと感じる部分もあった。特にフィオナ・マクラウド名義で書かれた物語は、ケルト民話を少しでも知っていたほうが楽しめるのかもしれない。(私はそれを知らないのでそうであるかどうか定かではないのだけれど)神々と人間の距離が近く、鳥が歌い、死者は生者でもあり、精霊は世界に寄り添うように存在している。

小学生の頃、星々の神話を好んで読んでいた時期があった。大昔の人たちが夜空を見上げてさまざまに空想し創り上げた物語たちだ。私は、それらが本当に空想だろうか、と思っていた。もしかしたら空想だと決めているのは今生きている私たちの勝手な思い込みで、大昔には本当に神々は地上に存在し、人間と変わらないふうに悩んだり恋をしたりお腹が減ったりうんちをしたるしていたんじゃないだろうか。そうに違いない、と決めてかかっていた。そしてこうも思っていた。もしかしたら今も神々や精霊は私たちのそばにいるのではないかしら。耳を澄ませば鳥の歌声も、犬の内緒話も、虫たちの悩み深い喜びも聞こえるのかもしれない。死んだ人たちが私たちを見守る優しい眼差しを感じることができるのかもしれない。神様たちの楽しそうな会話を聞くことができるのかもしれない。そう考えたほうがしっくりくるくらいに、神話はみずみずしく幼い私の心に届いたのだった。

フィオナ・マクラウド名義で紡がれた物語を読んでいると、その時の気持ちが鮮度をそのままに蘇ってくるのだった。何も知らないくせに、いや何も知らないからこそ、やっぱりあの頃に感じていた通りじゃないか、といたるところで私はうふんとなった。こんなにもリアルに、また、こんなにも優しく(厳しい時でも)あの世界たち(としか私は言い表せない)が表現されているのだもの、もしかしたら作者も小さい頃に、子守バーバラから物語を聞かされている時、私と同じように考えていたのじゃないかしらと勝手に想像してみたり。勝手な想像は無知な人間の醍醐味だと私は思う。

クラウド名義の作品の中で、というよりもこの作品集の中で一番強く惹かれたのは、『聖なる冒険』であった。訳者のあとがきには「スコットランドケルトの色彩が薄まりウイリアム・シャープの著作だといってもさほど不自然なものではないだろう」と書かれているので、おそらく読みやすさもあってそう感じたのだろうが、とにかく!内容が面白いのだよみんな。マジでお勧め!

まず一体だった躰と意思と魂が別々になって、でも一緒に旅しようよっていう設定がね、その発想がね、良いではないの。しかも意思と魂は(おそらく躰と)似通った体を選んでいるっていうのだから、もう好きだわ。唸ったわ。それぞれが大事にしているものとか意識していることとか考えていることが一体だったくせに全く違って、そういうことが細かく細かく会話されていて楽しいのだった。一体だけど別々という部分をとても巧みに文章で現してい、読んでいると彼らは間違いなく一体だけれど、間違いなく別々であるとしか思えない。そこに違和感は全くないから。

躰はどこか暢気で楽観的で一番下の弟みたいな感じだし、魂は完全に長男でちょっと上から目線だったりもするけどさすが魂なだけあって心(?)が広いし、意思はね、意思は真ん中っ子特有の苦悩を抱えているみたいにちょっと偏屈なんだけど根がまじめでね、だから余計にしんどいよね、と勝手に(と言ってしまえばここに書いていることは全てそうなのだけれど)それぞれに感情移入して繰り返し読んだけれども彼らは一体。そして私も一体だけれど、あるいは別々でもあるのだよ。

三人が「横目で様子を見つつ」並んで歩く姿を想像したら可笑しいではないか。笑うしかないではないか。ああああ、もうそれでいてなんなのか、こう痒いところに手が届くみたいに、私が言葉に出来ないでいたあれやこれやをするりと言葉にしてくれている!魂とはこういうもので意思とはこういうものでって、辞書なんかよりも詳しく教えてくれているのだし、生きるって、命って、人間て、ということがのびのびと構想されている。ような気がする。楽しいね。

ことに「<永遠>というのは何なんだ」からはじまって長いこと繰り広げられる魂と意思との会話には痺れました。彼らの苦悩は私の苦悩でもありました。そういうことでした。

もし、私のようにケルト民話もフィオナ・マクラウドウィリアム・シャープも知らないけれどもたとえば、本の装丁が美しいとかでこの本を手にした人がいて、最初の数ページで「無理かも」などと本を閉じようとしているならば、『聖なる冒険』から読んでみたらいかがだろうか。

 

ウィリアム・シャープとフィオナ・マクラウドという一体であるけれど別々である作家のその興味深い心の動きについては訳者のあとがきにも触れられているし、もっと詳しい研究もされているようであるから、ここで細かく紹介する必要も感じないけれども、「慎重に正体を隠しているからこそできることだ」とシャープが語っていたという部分で大きく頷く。わかる。だいたいにおいて名前に、自分に、ひっついているさまざまは、体面は、プライドは、ああいう諸々は、時に自分を縛るものですから。しかしまあ縛られていると思っているのは自分であって、だとしたら縛っているのは自分なのだけれど、だいたいにおいて自分というものが一番やっかいでありますからそこから自由に!自由に飛び立つとなると、もはや別人格を別名で誰にも内緒にしながら創り上げてゆく、というのがいいと私も思うのですから、すごくわかる。そしてそれが長く続けられないとゆうのもわかる。わかってしまう。

 

とか勝手にいろいろ書いているけれどこんなもの捨ててしまえ! 個人の思い込みで入れ込みでありますから正解とか正確ではありませんしもう夏みたいな暑さで。