不思議な眉を貼り付けたままに。

f:id:yokukokemasugana2ka:20180526022334j:plain

週末、電車を乗り継いで東京蚤の市に行ってきた。年々来場客が増えているような気がする。心が飛び跳ねるような品々ばかりなのでね、好きな人にはたまらない。

引っ越してから二ヶ月と少し、一人で電車に乗るというのが考えてみたらはじめてのことで、行く前は大冒険を前にする子供みたいに緊張と期待が入り混じった気持ちでやはり興奮して、アイライナーで眉を塗るというようなことをした。アイライナーというのは目尻の際に線を入れる黒や茶や青のペンシルのことで、私が持っているのは筆ペンみたいな仕様の黒いやつで、濃く濃く刺青のように消えないというのが売りのものなのだった。パッケージには汗も大丈夫、なんならプールだって平気と確か書いてあった。ような気がする。

本来眉に塗りこむものは色鉛筆をさらに柔らかくして、皮膚にふんわりと「のせる」というものなので、描いていてその質の違いやもしくは感触の違いに気づいても良さそうなのに、鏡をみながら、おかしいなってどっかで思いながらに何故二つの眉をイモトのように塗りつぶすまで間違いを間違いだと認識できないのだ己よ。

どおりでひんやりすると思った、じゃねえよ。

どおりで描いても描いても納得できないはずだ、じゃねえよ。

黒々してるじゃねえか。

黒々しかしてねえじゃねえか。

このように、見ているようで見ていないという現象なのかしら、行為? 自らそうすることを選び取っているのであれば行為でしょうけれども無意識の場合はやはり現象と言ってしまいたくなるその現象は、日常であちこちに転がっていますわね。たとえば時計なんかも見ているようで見ていない。何時かなっつって時計に視線を合わせた、確かに時計と目が合っている、だけども見たということで満足して目的であった時刻の確認部分が疎かだったりすることはありませんか? 針がきっちり真上とか真下になっていれば、まあざっくりでもわかるのだけれども、針が中途半端な2の近辺とか8、9辺りをうろうろしている場合は、見たのに何時かわからない。直後にまた時計を見、その直後にまた見ている、なんてこともざらなわけです。ん、あれは短い針だったかしらん、長い針? なんてこともあって、その間の時間は時計にもう囚われているような状態で。

私は人の顔に関してもそうで、たとえば友達に会いに行って帰ってきたらその友達がどんな表情で自分と向き合っていたかの部分が空白のことがある。あんなに笑って、あんなに喋り倒したのに私はあんたの顔を一切みていなかったのかもしれない、などとメールして呆れられることもある。なんかああいう時って、脳みそが独特の状態になっているような気がする。一種の興奮(やっぱり)状態のような、自分のこととかその場を楽しもうという気持ちでいっぱいになってからまわっているみたいな状態なのだと思うのだけど、そういうぐるぐるした状態はいつも後から気がついて、たとえば時計を三度見してからようやく時間を見るという行為に意識がなかったと気がつくみたいに、全部が終わってからああまた私はぐるぐるしていたなって気づくんであって、もはや何かにのっとられているのではないかしら、と思いたくもなるのだった。

なんにせよ全ては遅すぎるのだし、遅すぎるということを繰り返し学んでいるだけのような気もしてね、どうなの?

黒々した眉はクレンジングで三度洗いしても全部は落としきれないほどに強く頼もしく、滲んでますます広がる按配で、こんなの皮膚に塗ってもいいのかと今更ながらに。でも本当にプールでも大丈夫な気がしました。