黒い春に雲をつかむ話を海辺のカフカで読み上げて。

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最近読んだ本たち。

*黒い春 山田宗樹

*雲をつかむ話 多和田葉子

海辺のカフカ(上・下) 村上春樹

 

久しぶりにエンタメ小説を読みたくなって、百年法がすこぶる面白かった山田宗樹の『黒い春』を。感染経路や治療法などが全くわからないうえに激烈な症状を持ち死亡率100パーセントという未知の病気が発生してからの人々の戦いを描いているのだけれども、病気に関する追求もさることながら人間ドラマがまたえぐい。病気は容赦なく身近な人間の命を奪いにかかる。死と向き合わざるを得なくなった時その人は、家族は、はたまた自分はどうなるか。想像したくもない現実をばんばんつきつけられ、最後は涙なしには読めなかった。読了後も、たとえば一人きりのトイレの中で、ふいに痛みが溢れるほどに。並行して読んでいた他二作品を置き去りにして一気に読了し、気持ちをあらため「雲をつかむ話』に戻る。読みやすい本ではないけれど、表現の一つ一つが繊細でため息がでる。犯罪者とのひょんな接点からつるつる連なる不思議な関連の波。引き込まれているのか吐き出されているのかわからない。夢なのか現実なのか妄想なのかそれらは一つではなく全てがあてはまりそれを現実と呼ぶのかもしれない。バラバラの欠片のようでいてひとかたまりである世界をゆっくりと歩く主人公の「私」はずっと不安定の中で安定しているようなあぶなっかしさにあり、優しさといじわるは紙一重、強さは弱さで逆もまた然りなのだった。「私」をとりまく世界は偏見とそれを隠そうとするさらなる偏見の渦の中にあり、「私」はそれに必死に抗おうとするが自分の中にも同じようなものがあることもちゃんとわかっている。それでいて挑んでいくように飛び込んでいくようにしているのだった。ぶっとぶような言葉を選んで、それを武器にして彼女は生きている。作者の凄まじい感受性。感受性といえば村上春樹もまた同様に、彼独自のルールの中で最大限にそれを発揮しているのだったが私は『海辺のカフカ』を今回はじめて読んだ。今更に。どこにも淀みや停滞がなく進んでゆく二つの別々の物語が最終的にはつながりを持つというか、実は最初からつながっているんであって、それは主人公の「田村カフカ」がその名を名乗ろうと決めた日から、いや、「田村カフカ」が生を受けた時、あるいはそのもっと前、たとえばこの小説が村上春樹の手によって生み出された時、もしくはそのずっと前から決められた運命のようなものだったのではなかろうか。人は、影響しあい反響しあいながら生きている。一生出会わないままに終わるとしても、その人が自分になんら影響を及ぼしていないと何故言えようか。人間よ、想像力を働かせよ、とこの本を読んで作者ではなく作者の文字を通してもっと大きな何かから言われたような気がする。