小川哲著 ゲームの王国。

おひさ。

自粛自粛のゴールデンウィーク終了。テレビやネットの中にはこの状況にうまく適応している人がたくさんいて、今だからこそ学ぼうとか、自分のやれることをみつけていこうだとかで、眩しい。眩しすぎて、自分が影の中にいるよう。

私は何をしているか。何もしていない私の周りで、老犬ちゃんが死にかけて復活したり、実家の父が死んだりした。夫はすぐ横で痛みと闘っている。流れの速い川に落っこちて、ひたすら流されているみたいな日々だ。

そんな中、小川哲著「ゲームの王国」上下、読了。カンボジアが舞台で過去と未来、史実をたっぷり含んだ(たぶん)フィクションである。

読み始めたら止まらない本を紹介しているサイトで、この小説が紹介されていたので手にした。濁流に流されながらも、息継ぎするように没頭できる世界が欲しかったからだ。結果、私は息継ぎに成功した。この本を開けば、すぐにカンボジアに飛べる。知らない国の悲惨な過去の只中に、あるいは天才と天才の対立に、はたまた風変わりな殺し屋の風変わりな理論に、輪ゴムや土と会話する人間に、独自の風習を大切にしている田舎町に魅了されて引きずり込まれる。

面白い映画を夢中になって観ているみたいだった、と書こうと思ったけれど違うな。これは小説で、自分が読み進めるから鮮明な絵が浮かべられたし入りこめたんだと思う。

ありがたかった。

こんな状況で本なんか読めない!という状況におられる方におすすめ。

 

 

ギョーザとソマリランドと私。

快晴の水曜日。ゴミ出し、布団干しミッションクリア。窓を開けて空気の入れ替え。朝はまだ寒いけけれど真冬とは明らかに違うとろんとした冷たさ。

昨日は中三日ぶりに病院に行って夫に会えた。顔を見るだけで心が落ち着く。嬉しくてたくさん喋った。鼻からの管が抜けてつるりとさっぱりした表情をしている。昼から液状の食事が開始されていた。全くの液体。甘いジュースを残しただけの食器が置いてある。食道は、ステントのおかげで一センチの隙間ができたとか。ずいぶんと食べていないから、胃腸がびっくりしないようにゆっくり慎重に食べてと言っておく。

医師からは、食べられてもおかゆとかミキサー食程度という説明だったけれど、看護師さんの話だと、刻んだりよく噛んだりすれば固形でも、お肉でもお魚でも油ギッシュなラーメンでも!いけそうな感じらしく、二人で興奮する。食べたいものを紙に書きだす。ギョーザと書いていた。私の心のメモにもギョーザ了解と書き留める。

数日したら点滴もとれて、退院という流れになる。あまり先走らずに、まずはそこまで順調に進むことを祈り、願い、笑う。

高野秀行著「謎の独立国家ソマリランド」を読んでいる。アラビアに続き、馴染みのない国の、しかしこちらはノンフィクションである。まだ序盤だけれど、日本にだけ暮らしていたら絶対に見たり体験したりしないことがごんごんと書かれている。

私はあまりノンフィクションを読まないけれど、この人の本は好きだ。ピンチを笑いに変えてみせてくれるから。先が楽しみだ。しかしまたしても手首がやられそうな分厚さなのであった。負けない。

 

 

古川日出男著 アラビアの夜の種族

すごい風、すごい雨。月曜日。

引きこもりの三日目、もっぱら文字でのやり取りをあちこちと。口は、食べることにしか使っていない。もしもしみんな、どうお過ごしですか。

浴室を磨くとか、寝室のベッドの配置を変えたりとか、夫の退院に向けての動きをしつつ、アラビアに飛んでいた。もう長いこと、アラビアとこちらを行ったり来たり。手首がやられそうな分厚い本を、幾日も幾日も開いては閉じていた。

遠い遠い昔の、馴染みのない異国の、おとぎ話のような戦いの記録のようなこの本を、私は自ら読み進めながら、読み聞かせを受けているかに錯覚する。

幾夜にもわたり、あるいは長い長い一夜のごとく物語は進み、過酷な日常は暗幕の向こうに追いやられる。

 

おとぎ話であり戦いの記録であり冒険譚でもあり歴史書でもありそうなこの本は実は翻訳であり、過去に一度も真実の著者がつまびらかになったことはないという。そうであるがゆえに翻訳者の思うままに、つまりは語り手の思うがままに、付けたり貼ったりいじりまわされて世界中に拡散されているという。

日本語版の著者古川氏は、神秘的な偶然、あるいは必然によって、異国で、この翻訳の底本である英語版アラビアの夜の種族に出会い、自身が日本語に翻訳してみようかと思い立ったとあとがきに書いてあった。

人もさることながら、本との出会いでも時にそういうことがある。私もまた、このタイミングでこの本に出会った必然性を感じずにはいられない。私にはこの本が必要だった。今の、このタイミングで。絶対に。

この閉塞的な時期の、日常の、鬱屈しそうな空気の中で溺れそうになっている人がいたら、私は迷わずこの本を薦める。一瞬にして、異世界に吹き飛ばしてくれるから。

なんちて。

 

 

ただ本だけ読んで暮らしたい。

今日は書く気分じゃない、そんな気力がない、を繰り返して気づくと日付が経っている。大事な気持ちがぼろぼろとこぼれ落ちていく。ざるみたいな心。それが防御でもあるような。

考えること、調べることがたくさん。頭でっかちに陥っている。落ち着け私。

昨日の夜、天井からカメムシ的なものが落ちてきた。ゴキブリかと慌てて、それ用のスプレーを噴射してからゴキブリではないことに気づく。ゴキブリ用のスプレーは、カメムシには効かなかった。カメムシは生きていた。割りばしでつまんで外に出す。スプレーを吹きかけたところを、老犬ちゃんが舐めないよう雑巾で拭く。何度も拭いた。どこまでやれば大丈夫になるのかわからない。

ただ本を読んで暮らしたい。今は本を開いても数行で寝てしまったり、別のところに頭を持ってかれたりしてなんだかな。本を読むのにも、体力気力が必要なのだった。

今朝の朝日は真っ赤だったよ。

今朝も快晴。二度寝したら寝坊。老犬ちゃんも爆睡で何より。ゴミ出しミッション成功。

昨日夫に会いに行ってわかったこと。腕の血管に血栓ができている。見ると膨らんでいた。それをどうするかは外科と内科の先生で意見が違うと。外科の先生はそのままにしておく方向。血をサラサラにする薬を入れるほうのリスクが高いという考え。内科の先生は手術で取り除く可能性あり。いずれにせよそこに最近とかウイルスが住み着く(?)とやっかいらしく、どうしていくにせよ先生たちが決めた方向に進んでいくしかないよねと言いあう。長いこと点滴をしているし抗がん剤も使ってたしで、血管自体が固くもなっていて、液漏れしては別の場所に入れ直すのを繰り返していて、痛みとの闘いでもあるのです。

それとは別に、本日、内視鏡の検査をするとのこと。鼻から管が入っている(しかも二本も!)のに、さらに内視鏡を入れるとか、想像しただけでしんどそうだけれど、しばらく癌に対する治療ができていないし、今の腫瘍の状態を確認する必要があるのだろう。そのうえで、今後どうしていくかを選択していくことになるのだと思う。

その鼻からの栄養は順調に入っていて、量も増えて下痢もなく、何よりだ。入れているのは総合栄養ジュースみたいなやつなんだけど、ミルク味なのだって。焼き肉味とかステーキ味とかあればいいのに。直接胃にいっちゃうから味は感じないのだけれど、それでもなんかさ、もっとさ、こう「俺の胃には今、焼き肉が注がれている」みたいなあれのほうが、モチベーションも上がると思わない? 選べたりするとさらによくない? 今日は鳥のからあげでお願いします、とか。誰かすごい人、そういうの開発してほしい。もっと言えば、癌がたちまち治る治療法を開発してほしい。

 

 

 

 

生きる。

昨夜はマスク二枚配布報道で椅子から転げ落ちそうになったが9時半には寝た。志村けんさん追悼番組でドリフとか大丈夫だあとかやっていて、それを観て寝るという小学校時代と同じルーティン。巻き添えをくった老犬ちゃんがまだ寝たくないと、寝室に入るのを拒否したけれど抱っこしてぎゅっとして解決、したと思ったら4時半頃から暴れだして手が付けられなくなった。水のお皿をひっくり返し、くんきゃん鳴いて、ハウスの柵を必死に掘っている。なんか思うところがあるのだろうと外に出してやると、床におしっことうんちをした。それで落ち着いてくれるなら安いものだと思ったけれど全然そうはならなくて、寝室の中を(時には別室まで飛び出し)走り回っている。ものすごく元気な16歳。

少なくとも私よりは本能で動いている生き物が、普段ない行動をしだすと、なにか虫の知らせ的なものだろうかとか、天変地異の前触れだろうかとかすぐ思っちゃうけど、きっと違う。こんな感じが続くようなら、いよいよボケかもしれない。彼は今横で、朝の陽ざしに照らされながらいびきをかいて寝ている。うらやましいかぎりだ。

今日は早めにお昼を食べて夫に会いに行く予定。着替えとポカリと氷を持って。昨日から病院が面会禁止になったことはここに書いただろうか。さっと行って長居せず、ぱっと帰るつもり。きっと離れがたいけど、仕方ない。自分の力でどうにもならないことが多すぎる。自分の力でどうにかなることなんてあるのかな。夫と主治医とか看護師さんとか意外と話さない日々が続いていて、友達との話し方を忘れた。文字のやりとりと会話の仕方は全く別物。

冷蔵庫もからっぽになってきた。

生きる。

穴ぐらからおはよう。

昨日はゴミ出し(燃える)ミッション失敗。今日は(資源)成功。

四月だ。こんなに四月感のない四月ははじめてじゃないかな。私の中での四月感って何かというと、はじまりであり発芽であり、気持ちを切り替えて、半強制的に外に向かって伸びていくような、閉塞から解放へというイメージだけれど、今年は新型コロナの影響でなのか、個人的な状況においてなのか、冬が続いている感じがする。内側に、もしくは穴ぐらにこもっているみたいな。睡眠薬かなんかを盛られて眠らされ続けているみたいだ。桜が咲いているというのにさ。

今日から夫の病院も、原則面会禁止になった。やっぱりコロナの影響で。着替えとか持っていくくらいは仕方ないけど最低限度の回数で、絶対マスクをつけて、来てもとっとと帰りたまえよ、ということらしい。

山の上の家、夫がいなければ誰とも話さないまま一日が過ぎてゆく。訪れる人もいないし、誰かに会いにゆくことも、双方にとってリスキーな気がして躊躇してしまう。いつまでこうして穴ぐらに? それは誰にもわからないこと。

家に引きこもっているのは苦手ではないたちだけれど、それでも途方に暮れそうになる。有意義を探して、楽しいを探して、やりたいを探して。時間の使い方。少しでも未来につながることを。願い。その全ての過程を楽しみながらできれば最高だけど。

全く動けなくなる日もある。なーんにもしたくない日。したくない、に押しつぶされてしまう日。それはそれで許して、じっと待って、朝を迎えて、自分を探り探りしていたら、少しずつ、その形が見えつつある……かも。

まだ手探り。