はじまり。
こんな窓のある家に引っ越してきて一週間と少し。まだまだ荷解きにおわれている。
家が建つのはちょっとした山の中腹。麓で買物した帰り道はもはや登山だ。ご近所の方々は「すぐ慣れるわよ」とおっしゃるが、ここは車社会。
私は運転ができない。
坂をおりるたび、ベランダからの絶景をみるたび、トイレで踏ん張っている時などふとした瞬間に、遠くに来てしまったなあと思う。後悔や失望とは違うのだけど、途方に暮れてしまうのだ。まだ自分たちの棲家というほど親しみの湧いていない家の中で、瞬間瞬間途方に暮れ続けている。必要なものが慣れ親しんだ角度にないことでまるで、知らない人の家にお邪魔しているみたいに感じる。これを持ったままあれを探して、見つける頃にはこれを無くしている。その繰り返しだ。おろおろうろうろし続けている。
私は心細いのだ。長く住んだ東京のとある町を離れ、知り合いも、通い慣れた道や店もない。どこにも自分の手垢や足跡がついていないところにぽつんといること。
使い慣れたベランダの手すりの高さ。長年の汚れが染み込んだ壁。立て付けの悪い窓に、ボロボロになったすだれ。
一週間と少し前まで暮らしていた家や町をもう懐かしく感じるなんて、全く予想外だった。
私は、もっと前を見ているはずだった。期待と希望ばかりが膨らんでいたのにな。
……きっと私は興奮していたんだ。ただ興奮していただけなんだ。そして今、興奮がやっと冷めてきているのかもしれない。平常心に戻ろうとしているのかもしれない。
じっくりと時間をかけて、ここが自分の家になっていく。私の血液にこの町の空気がじわじわと溶け込んでいくはずだ。
ゆっくりやっていけばいいのだと言い聞かせる。勝手に焦りだす脳みそを雑巾で優しく擦ろう。ざらざらの繊維が、もしくは絞り足らない水気が不快で、我に返るかもしれない。
お邪魔している感が消えた瞬間を見過ごさないようにしていたいな。