まとまりもへったくれもない。

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昨日は一日よく歩いた。まるで巨大な蜘蛛の巣のよう。

裏山に登り、そこから連なる三つの山を旦那と二人でもりもり歩く。三つの山と言ってもどれも低山だからハイキングだ。おにぎりとカップラーメンとじゃが芋のお焼きみたいなやつを持っていったのに、そのお焼きの存在を二人とも忘れていて食べずじまいで戻ってくる。夕飯に出した。

途中から急激に気温が下がって寒かった。低いといっても山なんだから馬鹿にしちゃいけないね、なんて言いながら下山したら麓も充分寒かった。

帰宅したら老犬さんがいたずらをしていた。届かないだろうと思っていたところに置いておいたごはん(ドッグフード)をどうやってか引き摺り下ろして完食している。入っていた乾燥剤も引きちぎり中身がぶちまけられている。乾燥剤の粒が散らばる床を呆然と眺めてから、疲れた体に鞭打って掃除した。

粒も一緒に食べているんじゃないかと不安だったけれど、案の定今日のうんちに粒々が交じっている。まあ出たのだからいいか。どうか。

完全に人間の落ち度。気をつけよう。

 

そう言えば先日作って台所のテーブルにこそっと飾っておいた赤い花(ブログの記事にしたやつ)。

旦那が何も言わないので自ら「これどうよ」と言ってみた。旦那が何も言わないのも堪えきれず自ら「どうか」と聞いてしまうのもいつものことすぎて悔しいけれどまあ聞いた。

 

「何しとんねんって感じ」

 

こういう場面でおおよそだいたい旦那は貶しはしても褒めはしないとわかっているのに「いいね」とか言われることを淡く期待してしまう結婚生活19年目。ツイッターフェイスブックでもあるまいし。

いや待て。私が旦那に「いいね」を求めてきた期間のほうがツイッターフェイスブックの「いいね」の歴史より長いんだこっちが先輩だぞこら。いいねはそんなに簡単にもらえるもんじゃないだぞこら。と、誰に喧嘩を売っているのか自分よ。

私は典型的な褒められて伸びるタイプだし、新婚から長い間、褒めてほしくて泣いたり叫んだりしてきたけれども、褒められたいとか認められたい願望というのは自信のなさの裏返しだったり過剰になると依存になっていくということに気がついた瞬間がどこかにあって、そこからまた階段を数段のぼって今では彼が褒めようが褒めまいが自らの力でもって成長していける一個人であるし、このままの私だってかなり「いいね」という自覚が確立しているから傷はつかない。

振り返ってみると若い頃は結構面倒くさい人間だった。

 

でもものを創る人間としては誰かに小さくでも認められることが力になり励みになるから「いいね」というのはそういう力を生み出す小さなきっかけになったりするのだろうからツイッターとかフェイスブックの「いいね」もやっぱり大事な「いいね」なのだろうね。

今日はまとまりなく。