鏡の中の私はマフラーをしてライトダウンを着ている、寒い。

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これは何かと言うとクッションカバーなのです。クッションというか座布団というか。老犬さん(オス)は私(つまりメス)の匂いがついたものに執着して、噛んだり腰を振ったりするのでカバーがすぐボロボロになる。どうせボロボロになるのだからともうずっとボロボロのまま使っていたのだけど、今週末に友人が引っ越した家を見に来るというので大至急作ったのが昨日。今日も調子にのってもう一個作っている。写真のものはボタン式ので今日はファスナーのものを。旦那氏の座布団のカバーも揃えて変えようと思って。きゃん。

布は十年くらい前にやっぱりなんかカバー的なものを作ろうと思って買ったのだったか、買った時の映像記憶は鮮明にあるのに用途を思い出せない。用途なんかはじめからなかったのかもしれない。

でも思うのだよ。持っているだけで双方(人間と物)が幸せになる類の物はたぶん物凄く少なくて、物だってみんな役割を欲しがっているのだではないかしら。そう気づいたのは最近のことであった。何事も遅すぎるということはないよね。

 

布に直接線を引いてじょっきんじょっきん切っていったのだけど、布を切る工程はいつまでたっても緊張する。後戻りできない。本当に本当に本当にキミはこれでいいですか、と布に聞いたりもするけど、何はともあれ放置されているよりはマシなのです。と答えてくれている気がするのはやっぱり自分の心うちのあれこれが影響しての解釈だろうか。

ほんの小さい頃は、物にも感情があると思っていた。投げられたら痛いだろうし、踏みつけられたら苦しいだろうし、放置されたら寂しいだろうし、捨てられたら傷つくんじゃないかしら、が前提にあるからいろんな方位にある物たちの感情が自分の中にどっと流れ込んでくる(ように思っていた)時があって苦しかった。傷ついたものを抱えて泣いたりとかしてたな。懐かしみ。

今でも少しそういうところがあるが、大人になってずいぶんとたくましくずうずうしくなった。特に子育て期はそっちに集中してたからっていうのも言い訳だけど、「あそこの物がこう言ってます」みたいなあれはなりを潜めておったみたい。いいのか悪いのか。

 

最近はこんなふうに毎日ミシンに向かっている、というわけでもなくて書き物が主流だったりします。パソコンに向かってぱちぱちぱちぱちキーボードを叩く。ふとどんな顔して叩いているのか気になって、今日はこちらにむけて小さい鏡をおいてみた。意識してほんのり笑顔を浮かべてぱちぱちはじめて、油断した頃にちらりと鏡を見る。口角下がりまくっておるがな。

まだ誰が読むともその時がくるのかもわからない文字の羅列は、どうなんだろう。この方向性で進んでいいですかと誰かに問いたいけど誰もいない状態。私しかいない状態。だから私は私の中にいる人たちの声に耳を傾けるんであってそれがすなわち物語となりますね、おそらくは。

そういう不確かなことに時間を使っていたり、昨夜は鯛めしも炊きました。