ゲシュタルトの祈りとはゲシュタルトさんの祈りではないらしいね。
近所の公園の地面に寝そべって撮った。空は広いし緑は濃いい。
濃いより濃いいのほうがより濃い気がしませんか、だから濃いい。
風も冷たくなくて今日は最高のピクニック日和じゃないか、と意気込んででかけてレジャーシートを敷き、マクドナルドのハンバーガーを食べた。
食後はのんびり本など読んでいたけれどもじっとしてると底冷えてきて早々に撤退する。ピクニックが本当に気持ちいい期間て一年のうちでほんの数日なのかもしれない。急激に暑くなったり寒くなったりする昨今。
現在の我が家の風呂場には巨大な鏡があって、入るたびに全身が視界にぼんと入るシステムになっている。前の家は鏡がなくって欲しくて小さな手鏡を置いていた。もっとこう温泉旅館の浴場とか銭湯にあるような備え付けのやつが欲しいものだ、とずっと思っていたけれど、いざ全身をうつすような鏡があってみると、嫌でも目に入ってくるたるんだ肉たちにしゅんとする。
初日は思わず目を疑った。久しぶりに目の当たりにした全身は、高校生の頃に通っていた銭湯で目撃するおばはんたちと酷似していた。瓜二つ。あれですか。みんなみんな似た形状になっていくものですか人間て。
まあ肉を底上げする鍛錬もしていないから当然なのだけれども、自分がそういう歳になっていたのかと。いたのかよと。しみじみ煙草でも吸いたい気持ちになりました。二日目にして慣れたけど。
風呂といえばこの新しい家(築40年越えの賃貸)は、風呂のお湯をはる人(給湯器?)が喋る。お湯をはるというボタンを押すと「お湯はりをはじめます。お風呂の栓はしましたか?」と聞いてくる。
それはいいのだけれど、「はい。しました」とこちらが答える前に、じゃーと
お湯を入れ始める。
おい待てと。「あ、忘れてました。これから栓します」だったらどうするのかと。聞いておいて答えを待たずに入れるんかいと。
毎回「はやいよ」と突っ込むのだけど彼女(おそらく女子だと思う。だって声が女子だから)はおかまいなしで湯を垂れ流し続ける。
コミュニケーションっていうのはいついかなる時代も難しくなかった時なんか一瞬もないんだけど彼女のようにマイペースで割り切ってぐんぐん生きられたらいいかもしれん。
私は私。あなたはあなた。
彼女とやりとりしていると自然とゲシュタルトの祈りが浮かんできて、「つまりあなたはこのゲシュタルトの祈り的な極限を追求しているわけですか」とか、あの四角の画面的なものに話しかけているわけです。そのうち湯がたまります。
ゲシュタルトの祈りとはゲシュタルトとゆう人の心からの願い、みたいな意味だと思っていたら全く違うみたい。いわゆる概念。そういう勉強もしたはずなのに全く身についていない。夕飯はお雑煮。