神様、いるなら答えを教えてよ。

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シソの苗を頂戴したのでさっそく植える。先日はオクラを植えたけれど、そんな植え方じゃだめだと教えてもらい今日植え替えた。古い古いミニトマトの種と同じく古いアサガオの種も植えたのだけれど、結局芽がでなかった。ミニトマトの鉢に出てきたものをミニトマトの芽だと思ってせっせとお水をあげていたけれど、そりゃ雑草だと言われて引っこ抜いた。あの子は誰だったのだろう。雑草にもちゃんと名前があるはずだけど。

そんなふうに淡々と日常をやっている。

電話が鳴るたびにドキッとするけれど、今のところお父ちゃんがいよいよ危ないというような連絡はない。このままずっとなければいいのに。

昨日は歯医者にだって行った。とてもじゃないがそんな気分じゃないと旦那氏に言ったら、お前はいつだって歯医者の気分じゃないはずだと言われて強制連行された。でもそういう行動が案外大事なのかもしれないと終わってみて思う。立ち止まって考えたり思ったりしていても、何がどうなるわけでもなく、そりゃ強く願えば事態が好転するのであれば、なんぼでもそうするけれど、そう思って「死なないで!」と念じたおかんは結局死んでしまったし。悲しいけれど流れというものがあって、それが自然であるのならば、受け入れてゆくことが大事なのかもしれないけれどもそんなに簡単ではないよ。

ごく近しい人がこの世からいなくなってしまうとか、もちろんいずれはみんなそうなるのだけれど、だとしたらどうして生きているのかね。あんなに悲しく、こんなにも苦しい気持ちを持つことに、なんらかの意味はあるのかね。

死ぬことはそれこそ簡単ではなく、いろいろに苦しいし、むき出しなのだった。頑張って生きてきたのに、最終的にそういう状態にならなければならないのは何故なんだろうか。怒りはどこへ。空へ。許されないの。許すってなに。わからんわからん。

そんなことを考えながら私は引き続き生命活動をしているわけで、シソを植えたりね、ご飯作ったりね、食ったりね、風呂に入ったりうんこしたりテレビ観て笑ったりしているわけですよ。歯医者がやだとか言ってるわけですよ。その中の一個も今お父ちゃんはできないのだ。治療がやだとかも言えないんだ。そういうのってなんかこう、後ろめたいというか謝りたいような気持ちにどうしてもなってしまう。

こんなところでのほほんと私は。

本当に無力。