川上未映子 夏物語

私は、彼女の作品に恋をしている。

 

出版されたらすぐに読みたいけど、もったいなくてとっておいてのこの「夏物語」。

二部構成になっていて、第一部は芥川賞受賞作「乳と卵」を、膨らませたというか深くしたというか、あちこち肉付けされて裏のほうまでより知れるようになった物語。それで第二部は、その八年後から十一年後の物語。

川上さんの作品は小説、エッセイ問わず何度も読み返すのだけど、中でも「乳と卵」は断トツの回数読み返している。そして何度読み返しても、同じところで泣いてまう。この「夏物語」の第一部でもそうだった。緑子のあの、うまく伝えられないけどもたくさんの気持ちがたくさんあって苦しい感じや、いよいよ気持ちが溢れだした娘と対峙する母親の巻子の不器用な真剣さに触れると、どうしても涙をこらえきれない。なんてことを書いても「乳と卵」を読んでいない人にはなんのことだかわからないだろうし、実は物語の語り部「わたし」は、緑子でも巻子でもなく巻子の妹、夏子である。

「乳と卵」でもこの「夏物語」の第一部でも、巻子と緑子に対する傍観者のようである夏子が、第二部にきてぐんと前面にでてくるのであった。その生い立ちとか、仕事。誰かを好きになるとか付き合うとかセックスとか、子供を持つ持たないの選択とか人間関係の諸々、命とは、生まれてくることの意味、つまりは夏子の人生が、日々何を思い何を感じ何を見てどんなふうに行動してゆくのかをたどり、丁寧に丁寧に描かれてゆく。

読んでいて胸が苦しいのだった。私は夏子と生きてきた道筋に共通点はそれほどないけれど、それなのに著者が、どこかから私を盗み見て描いたのではないかと思ってしまうほど、夏子=私と感じてしまえるのだった。夏子の想像すること、感じ方、接し方などの一部始終が痛いほどに、痛いほどの自分なのである。

が、私は「乳と卵」を読み、緑子に対してもそう感じた。そしてこの著者の別の作品を読んでも、あらゆるところに私がいるのである。普段は目を逸らし、認めないぞとなんでか頑張ってしまう隠された自分をむき出しにされているようにも、また、日頃伝えたくてもそれに合う言葉がみつけられなくて、結局胸にしまわれつづけてしまう大事な部分を拾い上げてぴったりの言葉を当てはめてもらっているようにも思える。表現がいちいち刺さるのだ。そしておそらくそう感じるのは私だけではないのではないかしら。知らんけど。

この物語がそうしろと言っているわけではないけれど、なんとなく、人生を、自分を、逃げずにごまかさずに生きていかねばと思った次第。せっかく生まれてきたのだから。