真藤 順丈「宝島」

雪予報だったけれどこの辺りは雨。昨日とはうってかわって真冬のような寒さなので、ストーブを焚いて引きこもり。そうじゃなくても世の中全体が引きこもりを推奨する昨今(コロナウイルスの影響で)、家で楽しめる映画やドラマや本や芸術、それに学びの場などが無料で提供されているので、欲張りな私は気移りしてしまい、選ぶのにも一苦労だったりする。

夫が三度目の入院をして二週間が過ぎた。今回は治療のためではなく、状態が悪くなっての緊急入院である。途中、敗血症やその他もろもろにかかり、先生の口から集中治療室なんて言葉も出たりして気持ちが落ちたり落ち着かなかったりする日々だった。目覚めると隣のベッドにいるはずの人がいないこと。それを確認して、ああ現実なんだなあと毎朝落胆しては、断崖絶壁を這い上るように心を奮い立たせる。今だけを見て。今だけを見て。

本を読んでいる。先日読み終わったのは、真藤 順丈著「宝島」。日本が戦争に負けて、沖縄がまだアメリカの支配下にあった頃のお話。私が生まれる前の時代の沖縄。

沖縄には二度行ったことがある。観光でだ。私は観光地としての沖縄しか知らない。というか、沖縄のごくごく一部分の、尚且つその表面しか観ていないし見ようとしていなかった。そしてその時も、今も、そうしたことへの後ろめたさはあまりない。おかれている日常が、自分にとってあまりにもスリリングなために、感覚が鈍麻しているのかもしれないけれど。

この小説を読んで、その時代の沖縄の(あるいは今もなお続いているのかもしれない)閉塞感、当たり前の安全安心を闘ってしか勝ち取れない状況、貧困などを垣間見た。当時の熱情、人々の感情、あきらめ、怒り、悲しみ、慈愛などを目の当たりにした。もちろんそのごくごく一部を。女子供がレイプされ、飲酒運転の車にひき殺されても理不尽な判決を受け入れざるをえないこと。生まれ育った町の、自分たちの土地を奪われ、飛行機が小学校に落っこちてたくさんの子供が犠牲になる。いつまで耐えればいいのだろう。不安定な足元、不安定なアイデンティティ

それらをまるで他人事として、私は読んでいた。それでも沖縄は、明るくて楽しくてのんびりした時間の流れる生粋の観光地としてあってほしいなんて願いながら。

だけれど途中でふと、思い出したのだった。ほんの数日しか滞在しない観光旅行ですら、私は随所で後ろめたさを感じたこと。いったい何に対して後ろめたいのか、言葉にするのはとても難しいのだけれど、この土地の犠牲を何も知らずして踏み込み、浮かれて遊んでいいご身分だこと、というような気持ち。自分がお客さんでしかないことへの申し訳なさのようなもの。

あれはつまり、なんだろう。今、後ろめたさを感じていない自分に対する後ろめたさと、あの時感じていた後ろめたさは、同じだろうか。

ということはつまり、あの頃の私から私は、一歩も前に進んでないのかな。

結局のところ人は(私は)、自分の身にふりかからなければ、わかりえないものかもしれない。本当の本当のところは。それを後ろめたく感じること自体が、おこがましいことなのかもしれない。

ちょっと疲れているのかも。

今日はゆっくり休もう。