志村けんが死んじゃうなんて。

昨日の午前中は、志村けんさんの訃報を聞いて心が動かなくなってしまった。ネットで一報をみて、日頃つけないテレビをつけた。どのチャンネルでも訃報が伝えられている。言葉を失ったり、泣いている顔もある。ツイッターのリアルタイム検索では、志村けんさん関連のワードが並んでいた。次々にみる。嘘でしょうという言葉をみて頷き、信じられないという言葉をみて頷く。一様にみんな衝撃を受け、悲しんでいること、その波に自分も浸った。浸るしかなかった。どうにも抜け出せなかった。なにかとてつもなく大変なことが起きてしまったときみたいに、いてもたってもいられないような気持ちになって、それでいて麻痺したみたいにどこかが平坦で、そんな自分の気持ちを持て余しながら、それでも切り離し立ち上がることが、いつまでもできなかった。

いわゆるドリフ世代ではあるけれど、土曜の八時を楽しみにしていたけれど、大人になってからもファンだったというわけでもないし、すこぶる思い入れがあったわけでもない。むしろ幼き頃にみたけんさんはどこかギラギラしてみえて、少しだけ怖かった。最近の、後輩のみなさんを温かく見守りながら微笑んでいるけんさんに触れると、「いい歳の取り方してんじゃん!」なんて偉そうに思ったりした。

新型コロナに感染されたというニュースをみても、人工呼吸器がついたと聞いても、志村けんと死というワードがつながるはずもなく、復活した暁にはこれをどう笑いにかえるのかなと、その場面を見逃すまいと楽しみにしていた。不思議と今も、心のどこかで楽しみにしていたりする。向こうにいるいかりやさんに、追い出されて戻ってくるんじゃなかろうか、とか。

これから生まれてくる子供たち、あるいは物心ついてくる子供たちが、けんさんの笑いを知らずに育ってゆくのが悲しい。あの優しい微笑みが、もうどこにも存在していないということが悲しい。

今だけでなく、この衝撃の渦中だけではなく、いつまでもいつまでも、どこかで、彼の映像が流れ続けてほしい。まるでリアルタイムで観ているみたいに、「志村けんて面白くね?」って言いあう人がいてほしい。

ご冥福をお祈りします。